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パイオニアストーリー#2 中谷 純江さん

更新日:2023年9月4日


小雨の降る中、穏やかな街並みが続く学園都市として有名な国立駅での待ち合わせ。

赤いコートで颯爽と現れた純江さんは

「息子が傘を無くしたっていうから買ってたのよー。」と。

そんな会話から始まった貴重なお時間は、インタビューというよりも終始笑いながら会話を楽しむという感じであっという間に過ぎていました。

紛争地域に赴き、死と隣り合わせで活動をしてきたお話を伺い、小柄な体のどこにそんなパワーがあるのだろうとお尋ねしたら、

「疑問に思ったらもう黙っていられないからね。」

「目の前のドアを開けて進んでるうちにいつの間にか後ろに道が出来てたわー。」

と笑いながらおっしゃってくださいました。

純江さんを動かしてきた力は

「とにかく前に進むしかない。」

という言葉にも表れていました。



ーー国連で働くきっかけというのはなんだったのですか


青森の八戸で育って、米軍基地が近くにあったんだけどだからというわけでは全然なくて、進路を考え始めていた高校生の時にベルリンの壁が崩壊したの。

テレビの画面の中で学生たちが肩を組んで歌っているのを見て、

「あぁこういう歴史が動く瞬間を目の前で見たい!」って強く思ったのよね。

そこから海外を視野にした大学を探して。入った学部はほとんどが帰国子女とか留学生で英語を喋れて当たり前というクラスメイトの中、NHK のラジオ英会話を聞いて必死で勉強したなぁ。

世界史は楽しかった。この時この人はどんなことを思っていたのだろうとか想像しながら勉強するのは好きだったけど。でも結局何をしたらよいか、これからどうすればよいかというのは分からないまま就職活動の時期が来て。入社試験を受けたけど入りたい動機がないものだからどこも受からず、ちょうど就職氷河期だったというのもあって、とにかく人に話を聞きに行ったり、ボランティアをしたりしてたの。


そしたらたまたまキャンパスで、紛争難民の人たちに英語を教えるボランティアを募集してて、そこで難民の人たちに教えているうちに

「なぜ、難民が生まれるのか?」「なぜ紛争が起きるのか?」

と疑問に思って、これはここで働きたい、働かなきゃと思って。

「トイレ掃除でもよいので雇ってください!」と無理にお願いしたの。笑


難民を助ける会という NGO 団体に就職したんだけど、親からはもう絶縁だって言われたわ。 そういう時代だったからね。

海外への派遣もさせてもらって。でも疑問は解決しなかった。

だからこの時にボストンの外交とか法律を教えてる大学院に留学して修士を取って、国連の女性開発基金で働かせてもらえるようになったの。

でも入ってみたら国連も制限が多くてね。

3 年くらいでお役所仕事の不自由さに気付いて、政治学の方で博士を取ってそっちで自由に論文を書ける楽しさを感じながら紛争地域の女性のサポートをしてた。

911のあとに、パレスチナや東ティモール、カンボジアといった紛争地域に赴いたとき、ハンドル操作を誤れば地雷を踏んでしまうかもしれない道を走り、玄関のノブに仕掛けられたブービートラップを外しているのを目の前で見て

「やっとこれで私たちの状況が分かった?」と現地の方に言われたのを今でも覚えてる。

人間はここまでやれるようになってしまうんだな。というのと、こんな過酷な中で育っていく子どもと子育てをしていく女性たち。

彼女たちは私たちに何を求めるのだろうと尋ねてみると、物資とか住居ではなくって、みんなが口を揃えて「教育」と答えるのよね。

子どもが未来の希望の象徴だから。



ーー2013 年から PKO 国連平和維持活動に参加。新しいミッションのなかでスーダンやダルフールで平和交渉のサポートをしていた純江さんは一番の危機を体験することに。


当時のスーダン政府大統領に逮捕状が出て、私たちは報復措置を受けるかもしれないという事でキャンプ全体の危機管理をしなくてはいけなくなって。上司からお前は日本人だから禅の心でやってくれと任されて。私のシナリオがしくじったら仲間がみんな死ぬという状況だった。死と隣り合わせの話し合いの中でみんな興奮してきてまとまらなくなった時に、体の大きな軍人の男性の中でひときわ小柄なわたしが「ドンっ!」って机をたたいて「冷静になりなさい!」って言ったもんだからみんな静かになってね。でも、そのあと不安と恐怖でトイレで隠れて泣いたんだけどね。日本人はもしかしたらこういった場をまとめるのがうまいのかもしれないと思った。隠された日本人のポテンシャルだよね。一人一人のバックグラウンドを想像して、そこに寄り添ってコミュニーションが出来る、空気を読むという事が得意だし自己を主張することが少ないから一人一人に合った話し方で進めていくことができるのよね。



ーー純江さんはなぜ国連で働くことから退いたのですか


10年くらい前から流れが変わったように感じたからかな。

入った当時は「自分たちが頑張れば世界はもっと良くなる」って誰もが信じていたし、希望があった。今よりも世界が分かりやすかった。

だけど段々と紛争自体が変わってきて、国や政府の争いではなく、街で市民同士が争っていたり、街ごとに対立している人たちが異なったりして、問題がより複雑になったようにみえてきて。紛争は未だ終わらず、都市でもテロが起きるようになって。頑張れば変わるという世界ではなくなった。

世界の構造は変わっているのに、国や組織の仕組みは変らないばかりか、どんどん内向きになって保身や守りに入っていったようになって。ますますやれることが少なくなっていき

同じように考える仲間が周りにもいなくなったからかな。



世界に出てみて地元を思い出す縄文世界観の再発見


既存の国や組織を頼りにしてきたけど そうじゃないと感じ始めて、街単位で争いが起きているのだから 平和も街単位から生まれるんじゃないかと思うようになった。

今のような中央集権国家が出来てからまだ数千年だけど、みんながフラットなつながりでいられた時代は 1 万年以上続いていたということ。そこで縄文ワールドというのを研究し始めて、縄文というキーワードで Aska プロジェクトにも出会ったというわけ。海の人も山の人も、どんな神様を信仰していても 繋がるのは交易と公益によって。

交易とかトレードはその土地から生まれたもの、得たものを交換する地場産業。

土地が与えてくれたものを昔の人たちは神様と呼んで皆のものとしていたんじゃないかな。

神様が与えてくださったものを交換して豊かになるそんな世界観て昔あったよねって、生まれ育った青森の縄文遺跡を思い出すの。



ーーAska ワールドの先住民サポートプロジェクトについて純江さんからはどう見えますか?


祈りはあたらしいテーマだなと思った。私が見てきた支援というのは物資が当たり前だったし、開発事業と合わせてビッグビジネスにもなっていて。

地球の大切な土地を守ってくれている先住民の方を祈りで繋ぐというのは今までになかった発想。祈り、場、環境、文化・・・人を超えたものが人知を超えたものを繋ごうとしている。

祈りは相互支援だよね。祈ることで何かを与え、何かが還ってくる。そんな見えないエネルギーの循環も感じるし、祈りの感覚はきっと世界共通なものだから。

これからのサポートは物質を超えたそういったものになっていくのかもね。


My conscience is clear


「死と隣り合わせのなかで直感は自分を守るもの、仲間を守るものでもあったし

自分の中で生まれるものというよりも皆の意識でもあるのかもしれないと感じたから余計に直感をないがしろにしない、少しでも違うと感じたならそれを見逃さない」と、常に自分と向き合ってきたそうです。

「疑問に感じたことはそのままにしておく方が苦痛なのよねー。」と。


常に大切にしていることは「My conscience is clear」

良心をクリアにしておくいうことだとおっしゃっていました。

「今の社会って、まだ組織の集合体だから、息苦しさがあると思うけど、 、、もう限界だから!どう見ても。」アハハと笑い飛ばす純江さん。

今はパーマカルチャーやエコビレッジに関心があるそうです。

一橋大学の研究室、といういわゆる一流の堅苦しい空間の中で、

「もう肩書きとかも格好悪いよねー。って政治を教えてるわたしが言うのもなんだけど。」と笑う彼女は、キャリアを追いかけて国連や大学にたどり着いたわけではなく、自分の内に生まれた疑問に向き合っていたらこうなっただけ、と軽やかに語ってくれました。


対談を終えて外に出るとシラサギが飛び立つ瞬間に遭遇


シラサギを見ると縁起が良いとされ、幸運を運んでくる鳥だとも言われています。

まさにまた人生のターニングポイントを迎えた純江さん。

肩書や地位に執着せず、本当にやりたいことだけをやっていく。限界を迎えたこの社会の尺度が崩れフラットになっていき、いろいろな業界、世界で生きてきた人たちが同じ価値観で繋がって、自由で調和のとれた新しい世界をクリエイトしていく流れを一足先に感じられた対談となりました。



中谷 純江(ナカヤ スミエ) ニューヨーク市立大学 政治学部で博士取得

フレッチャー外交法律大学院で修士取得

現在は一橋大学にて政治学、国際関係論(紛争解決、平和構築)で教鞭をとる

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